そのハトロン紙の包みが見つかったのは、昭和七年三月七日のことであった。通称「お歯黒どぶ」と呼ばれる、それはそれは汚い下水溝にそれはたゆたっていた。届けを受けた派出所の巡査は、またか、という顔をした。優生保護法はなく、堕胎が厳しく取り締まられていた頃である。二〇〇〇人もいる娼婦の中には、誰の子やら判らぬ子を産むと、処置に困ってこれをどぶに棄てる者も多かった。
 これもそうだろう。
 巡査は手慣れた手付きで包みを開ける。と、中から潰れた男の顔が出てきたので肝を潰した。
 更にどぶを捜すと、手足を切断された胴体の包みも発見された。

 男は死後一ケ月と推定された。相当に腐敗していたので、顔はよく判らない。それでも念のため、その顔は街頭に手配された。私の祖母を発狂させたのは、この手配写真だったのである。  
 この顔では埒が明かないと判断した捜査当局はモンタージュ写真を作成。しかし、科学捜査の発達していなかった時代のことである。モンタージュが完成したのは八月を過ぎた頃であった。その間、実に五ケ月もの間、問題の顔は乾物屋の店先に貼られていたことになる。祖母が発狂するのも無理はない。

 モンタージュ写真が公表されてからは、事件の解決は早かった。石賀巡査が、幼い女の子を連れて街を彷徨っていたこの男を覚えていたのだ。
 男の名は千葉竜太郎。本籍は秋田であるが、現在は湯島の長谷川市太郎方に同居している。市太郎の妹とみとは内縁の関係にあった。
 市太郎は定職もなくぶらぶらしていた。ときどき春画を売ったりして稼いでいたようだ。妹のとみは二十六になるが、若いときから水商売を転々としていた。弟の長太郎は東京大学工学部土木教室の印刷工をしている。
 参考人として呼び出された市太郎は、知らぬ存ぜぬで押し通した。千葉は何の断わりもなく勝手に出て行ったっきり挨拶も寄越さない。さんざん世話になりながら酷い奴だと思っていたんですヨ。千葉の娘きく子はうちでまだ預かっているんですからネェ、と千葉の悪口を云うばかりである。
 しかし、刑事たちの厳しい追及の前に次第にシドロモドロとなり、遂には千葉殺しを自供するに至った。

 市太郎と千葉が知り合ったのは、ちょうど一年前のこと。千葉は郷里で百姓をしていたが、生来の怠け癖が崇って、呆れ果てた妻に三下半を叩きつけられる。それでも千葉は、反省するどころか、東京に行けば何とかなると田畑を売り、残された娘を連れて上京する。
 娘と二人で本郷や上野の木賃宿を転々とするが、不況の折り、百姓上がりの何の技術もない千葉に職が見つかる筈もない。たちまち路銀を使い果たし、ルンペン同様の生活を余儀なくされる。先の石井巡査が千葉親子を見かけ、世話したのも、ちょうどこの頃である。
 千葉親子が浅草公園で腹を空かせてぼんやりしているところを通りかかった市太郎も、女の子が余りにも不憫なので、ふと声をかけた。これが市太郎の運命を狂わせることになる。
 千葉は、ルンペン風情に身をやつしていても、口から出まかせでこんなことを云う。俺の実家は捨て値にしても壱万八千圓位にはなる田地田畑を所有している。しかし、継父との折り合いが悪く、こうして上京した。
 千葉にまんまと騙された市太郎は、面倒見ても損はないと算段。親子を我が家に連れて帰る。