アル・カポネ
Alphonse Gabriel Capone (アメリカ)



アル・カポネ


ジョニー・トーリオ

「暗黒街の顔役」ことアル・カポネは1899年1月17日、ナポリからの移民の子としてニューヨークのブルックリンに生まれた。当初は素直な子供だったようだが、十代前半からグレ始め、15歳の頃にはジョニー・トーリオ親分の使いっ走りをしていたというから恐れ入る。
 ちなみに、肥満体で頭髪の薄いカポネは年嵩に見られがちだが、検挙された時にはまだ32歳だった。早熟だったのだ。

 1915年、ブルックリンでの度重なる抗争に嫌気が差したトーリオは、叔父貴のジム・コロシモを頼ってシカゴに移住。1919年には成人したばかりのカポネを呼び寄せ、腹心に据えた。
 その当時のアメリカは、翌年の1月17日から施行される禁酒法に備えてあたふたしていた。金持ちは大量の酒を買い込み(自宅での飲酒は許されていたため)、醸造所の経営者たちは廃業に追い込まれたことで国を恨んだ。そんな中でトーリオは密造酒の事業を始めることを考えていた。ところが、コロシモ親分は、
「うちはもう賭博と売春で十分に潤っておる。酒にまで手を出す必要はない」
 酒に手を出すことで、警察とのこれまでの良好な関係を壊したくなかったのだ。この消極的な姿勢に若いカポネは反撥した。
「酒はこれから必ず金になります。親分、殺っちまいましょうや」
 トーリオはカポネの助言に従った。ブルックリンからフランク・イェールという鉄砲玉を呼び寄せて、会合先のレストランでコロシモを射殺させたのである。1920年5月11日のことである。

 かくしてコロシモの事業を受け継いだトーリオとカポネは、密造酒の事業も併せて展開し始めた。

「やがて貧民窟は忘れ去られるでしょう。刑務所は工場に変わり、留置場は倉庫に変わるでしょう。男は背筋を伸ばして歩き、女は微笑み、子供たちは無邪気に笑うことでしょう」

 これは当時、禁酒法の成立に一役買った伝道師、ビリー・サンデーの言葉である。ところが、現実にはこうはならなかった。

「やがて貧民窟はアル中患者で溢れるでしょう。刑務所は密売人の巣窟になるでしょう。男はヤクザにビクビクして歩き、女は春を売り、子供たちはヤクザになることに無邪気に憧れることでしょう」

 こうなったのは、国が法律で禁酒を強制することが極めて不自然だったからである。その不自然さをヤクザたちは見抜いていたのだ。



ダイオン・オバニオン

 トーリオとカポネの思惑通り、密造酒の販売は組織に莫大な利益を齎した。穏健なトーリオは他の親分たちと協議して、それぞれの縄張りを取り決めていたが、これだけ儲かると判れば独占したいと思う輩も現れる。それがアイルランド系ヤクザのダイオン・オバニオンだった。

 ジェイムス・キャグニーの代表作の一つ『民衆の敵』のモデルになったことでも知られるオバニオンは、表面上はトーリオ一家と同盟を結んでいることを装いながら、裏ではその邪魔をしていた。そして、1924年5月19日に遂にトーリオをハメる。警察の手入れがあることを事前に知りながら、シーベンの醸造所をトーリオに50万ドルで売り渡したのである。醸造所での代金の授受の直後に警察が押し入り、トーリオとオバニオンは共に逮捕されたが、罪に問われたのはトーリオだけだった。
「親分がハメられた!」
 怒り狂ったカポネは直ちに鉄砲玉のフランク・イェールを呼び寄せた。

 1924年11月10日、オバニオンは自らが経営する花屋で、百合の茎にハサミを入れていた。そこに3人の男が来店する。それを眼にしたオバニオンは従業員に云った。
「床が汚れてるぞ。散らばっている葉っぱや花びらを掃除しろ」
 そして、ようこそいらっしゃいましたと客に手を差し出し、握手した。ところが、男はその手を離さなかった。
 ズドン。ズドン。ズドン。ズドン。ズドン。
 矢継ぎ早に胸に2発、喉に2発、頬に1発の銃弾が撃ち込まれた。百合の花束の上に崩れ落ちるオバニオン。
 ズドン。
 最後の一発は頭を貫き、白い百合を真っ赤に染めた。



ハイミー・ヴァイス


ジョージ・モラン

 オバニオンの死後も「ビール戦争」と呼ばれる一連の抗争は続いた。
 翌1925年1月24日にはトーリオが狙われた。車から降りたところを、オバニオンの部下だったハイミー・ヴァイスジョージ・モランに銃撃されたのだ。幸いにも一命は取り留めたが、もともと血を見るのが好きではないトーリオは引退を決意、組織をカポネに譲り渡した。

 今度はカポネが狙われる番だった。
 1926年9月20日午後1時15分、ボディガードに囲まれたカポネは、アジトがあるホーソーン・インの1階レストランで遅めの昼食を摂っていた。すると、そこに自動車のけたたましいエンジン音が響き渡った。カポネを含む客たちは「何事ぞ」と窓に駆け寄る。刑事の公用車だ。タタタタタンとけたたましく機関銃を発砲している。どこぞのヤクザが追われているのか?
 ボディガードの一人が機関銃は空砲であることに気づいた。
「親分、これは罠ですぜ!」
 カポネは慌ててテーブルの下に逃げ込む。すると、黒塗りの車が10台ほど一列になって現れて、それぞれがレストラン目掛けて機関銃を発砲し始めた。
 タタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ。
 えらいこっちゃ。
 ところが、1000発以上の銃弾が撃ち込まれたにも拘らず、死者は1人も出なかった。負傷者も3人しか出なかったのは奇跡という他ない。

 こんなことをされて黙っているようなカポネではない。首謀者がハイミー・ヴァイスであることを突き止めた彼はすぐさま報復に出る。
 1926年10月5日、ヴァイスは一味のアジトがあるオバニオンの店、そう、ダイオン・オバニオンが暗殺されたあの花屋の前に車を停め、ボディガードを従えて舗道を横切ろうとした。そこに機関銃が鳴り響いた。カポネの放った刺客たちが花屋を見下ろせる部屋を借りていたのだ。もう1週間も前から機会を伺っていたのである。ヴァイスは12発もの銃弾を浴びて絶命。カポネの手下どもの方がよっぽど腕がいいことがこれで証明されたのだった。



聖ヴァレンタイン・デーの虐殺

 その後も続いた抗争にようやく終止符が打たれたのは1929年2月14日のことである。カポネが放った5人の刺客が警察官に扮装し、ジョージ・モランのアジトがある自動車修理工場を襲ったのだ。肝心のモランは遅れたためにいなかったが、5人の幹部と修理工、そして、たまたまそこに居合わせた運の悪い視力矯正士の7人が壁に向かって並ばされ、背後から機関銃の雨を浴びたのだった。これぞ悪名高き「聖ヴァレンタイン・デーの虐殺」である。
 この事件以降、アイルランドの一味は弱体化し、シカゴはカポネのものとなるわけだが、その反面で風当たりが強くなった。少々派手にやり過ぎてしまったのだ。「聖ヴァレンタイン・デーの虐殺」の凄惨な現場写真がアメリカ全土に報じられると「カポネ討伐」の気運が連邦政府の中で高まり始めた。

 そこで動いたのが財務省と国税局である。地元の警察や判事、政治家に至るまでを買収していたカポネを検挙するためには、禁酒法違反と脱税の線で摘発するより他になかったからだ。財務省から送り込まれたエリオット・ネスは選りすぐりの禁酒取締チ−ムアンタッチャブルを組織し、カポネを財政的に締め上げる一方で、国税局から派遣された査察チームは金の出入りを綿密に調べ上げて行った。

 一方、シカゴの暗黒街を制圧したカポネはますます増長していた。それを象徴するのが「バットでボコボコ」の一件である。予てから「手下のジョン・スカリーゼアルバート・アンセルミジュゼッペ・ギュンタの3人が裏切りを企んでいる」とのたれ込みを得ていたカポネは、1929年5月7日に催された晩餐会で、この3人をバットでボコボコと殴り殺したのだ。

 しかし、カポネの栄華はそう長くは続かなかった。1931年6月5日、脱税の容疑で起訴されたのだ。
 当初はカポネも高を括っていたことだろう。たかが脱税。実刑を喰らってもせいぜい数ケ月で出て来られる。ところが、10月24日に下された判決は11年の懲役と罰金5万ドル、訴訟費用3万ドルというべらぼうなものだった。
 ハラホロヒレハレ。
 かくして、脱出不可能と云われたアルカトラズに収容されたことでカポネの支配は終わりを告げた。1939年11月16日に釈放されたが、梅毒に犯されていた彼は見る影もなく、1947年1月25日にひっそりと死亡した。出所してからは一度もシカゴに訪れることはなかったという。

(2007年10月11日/岸田裁月) 


参考文献

『マフィアの興亡』タイムライフ編(同朋舎出版)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『20世紀全記録』(講談社)


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