ハリー・ドブキン
Harry Dobkin (イギリス)



ハリー・ドブキン


レイチェル・ドブキンの上顎

 ロシア生まれのユダヤ人、ハリー・ドブキンはつくづく運に見放された男である。ユダヤの慣習に従って、周旋屋の紹介でレイチェル・ダビンスキーと籍を入れたものの、結婚生活は3日間しか続かなかった。ところが、その3日の間に精子が卵子に見事に命中。十月十日でオギャアと生まれて、ドブキンは1941年にその子が成人するまでの間、養育費を支払わなければならないハメとなった。たった3日の代償が20年間の働き蜂。堪ったもんぢゃねえ。支払いはしばしば滞り、そのたびに彼は債務不履行を理由に勾留された。

 ようやく20年が過ぎようとしていた。これでもう養育費を工面する煩わしい日々とはおさらばだ。ところが、レイチェルの野郎はこんなことを抜かして来やがった。
「あんたの子なんだから、成人後も面倒見るのが道理なんじゃないかねえ」
 堪忍袋の緒が切れたとはこのことを云うのだろう。ドブキンはレイチェルを絞め殺すと、バラバラに切り刻んでいた。

 時は第二次世界大戦下にあった。ロンドンではドイツによる空爆が相次ぎ、一般市民にも多数の死傷者が出ていた。1941年4月15日の真夜中にセント・オズワルド・プレイスの廃墟と化した礼拝堂跡でボヤがあっても、気にとめる者は誰もいなかった。そんなことは日常だったのだ。
 15ヶ月後の1942年6月17日、礼拝堂跡の瓦礫を片付けていた作業員が大きな敷石を持ち上げたところ、その下から黒焦げの白骨死体が現れた。空襲の被害者と見るのが自然である。しかし、検視に当たった法医学者キース・シンプソンは、遺体がバラバラに切断されていた痕跡を見逃さなかった。

「頭と腕を胴体から切り落とし、遺体の身元を隠すために顔の肉を削ぎ落としている。解剖の知識のない素人の犯行だ。遺体は四十代の女性で、身長は約150cm。線維腫を患っている。死亡したのは1年から1年半前。喉の舌骨が折れていることから、扼殺されたと思われる」

 1年から1年半前の失踪届けを調べた警察は、1941年4月12日に姉から失踪届けを出されていたレイチェル・ドブキンに当たりをつけた。全ての特徴が遺体と一致していたのだ。夫のハリー・ドブキンとは過去20年にも渡って別居中。その彼が失踪当時に警備員として巡回していたのが、遺体発見現場付近だった。
 あっ、ボヤだ! あの時、ボヤがあったのが遺体発見現場だ!
 点と点が繋がった。ドブキンの犯行と見て間違いないだろう。遺体をバラバラにした後、礼拝堂跡に遺棄して火を放ち、あたかも空襲の被害者であるかのように偽装したのだ。なるほど、考えやがったなあ。

 ここまで判れば、訴追する側がするべきことは、遺体がレイチェル・ドブキンであることを確定することだった。
 まず、彼女のかかりつけの歯科医からカルテを入手した法医学チームは、上顎の治療の跡とカルテが一致していることを確認した。
 その上で、バック・ラクストンの時に決め手となった顔写真と頭蓋骨の重ね合わせを行った。2つは完全に一致した。遺体はレイチェル・ドブキンに間違いなかった。

 かくして3日間だけの妻殺し容疑で有罪となったドブキンは、1943年1月7日に絞首刑に処された。戦争のどさくさに紛れて誤摩化せると思っていたのに、つくづく運に見放された野郎だぜ。

(2007年11月29日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『死体処理法』ブライアン・レーン著(二見書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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