ベンジャミン・シーゲル
Benjamin "Bugsy" Siegel (アメリカ)



ベンジャミン・シーゲル


暗殺されたシーゲル

 ベンジャミン・シーゲルと云われてもピンと来ない方でも、バグジーと云われれば「ああ、あいつか」と思われることだろう。しかし、彼のことをこの綽名で呼べたのはごく近しい目上の者、例えばルチアーノやランスキー、コステロぐらいだった。とにかく怒り狂うと手に負えないので、ついた綽名が「バグジー=キチガイ」なのだ。目下の者がバグジーなどと呼ぼうものなら命の保証はなかったのである。

 1906年2月28日、ブルックリンの貧しい家庭に生まれたシーゲルは、11歳の時にマイヤー・ランスキーに誘われてラッキー・ルチアーノの一味に加わる。ところが、ランスキー共々ユダヤ系だったため、シチリアン・マフィアの世界では表舞台に立つことは出来ない。已むなくランスキーは影の参謀、シーゲルは鉄砲玉として暗躍する。後に社会問題化する暗殺部隊「マーダー・インク」の礎を築いたのは彼である。

 ボスのルチアーノが強制売春の容疑で検挙された1936年、シーゲルは特命を受けてハリウッドに移り住む。当時のハリウッドはユダヤ系のミッキー・コーエンが仕切っており、故に同じユダヤ系のシーゲルが橋渡しとして送り込まれたのである。
 幼馴染みの元同僚、ジョージ・ラフトは今では映画スタアの仲間入りを果たしていた。彼のコネクションを最大限に利用してシーゲルはその顔を売った。180cmの長身に甘いマスク、透き通るような青い瞳。本物のギャングだと判っていても、ハリウッドの女たちはシーゲルの虜となった。

 数多くの女優や有閑マダムとベッドを共にしたシーゲルだったが、中でも特に興味深いのがドロシー・ディフラッソ伯爵夫人を巡るエピソードである。彼女は時の独裁者、ムッソリーニと顔見知りだった。そこでシーゲルは彼女を従えてイタリアに出向き、ムッソリーニに「アルマイト」なる新型爆弾を売り込んだのである。ところが、実演したらぷるぷるぷっそん。煙が立ち上るだけの不発に終わった。腹を立てたムッソリーニは伯爵夫人の身分を格下げ、2人を来賓室から追い出した。代わって招かれたのは、なんとあのゲッベルスとゲーリングだった。バグジーは怒る狂った。
「ムッソリーニをぶっ殺してやる! それからあのゲッベルスとかいう奴らものな!」
 伯爵夫人が必死こいて宥めたために暗殺には至らなかったが、もしこの時に殺していれば、その後の歴史はかなり変わっていただろう。残念ながら「その時、歴史は動かなかった」のである。

 ハリウッドという見かけだけは華やかな世界で、シーゲルは次第に自分を見失って行った。生活も派手になり、コスタリカ沖合いのココス島まで宝物の発掘に出掛ける等、ありもしない夢を追い掛ける痴れ者と化していた。
 そんな彼の最大の功績は、ラスベガスを作ったことだろう。当時はネヴァダ州以外は賭博は違法で、ロス在住のギャンブル馬鹿はわざわざリノまで行かなければならなかった。そこでシーゲルが目をつけたのが砂漠の町、ラスベガスだ。ここならリノよりもロスに近い。大規模なカジノをこさえればいい稼ぎになるに違いない。
 かくしてルチアーノから大金を引き出したシーゲルは、当時の愛人ヴァージニア・ヒルの愛称に因んだ伝説のカジノホテル「フラミンゴ」の建設に着工する。ところが、費用は150万ドルから600万ドルに大きく膨らみ、オープン初日にも客室はまだ工事中という有様だった。カジノは儲かるどころか赤字続き。やがてシーゲルが建設費を着服しているとの噂が広まり、遂にバグジー討伐とあいなる。1947年6月20日のことである。刺客が放った銃弾は自慢の青い瞳を奪い去った。それは4メートルも吹き飛ばされて、床に転がっていたという。

 ちなみに、映画『ゴッドファーザー』の終盤で暗殺される「ラスベガスの大物」モー・グリーンはシーゲルがモデルである。やはり眼を撃ち抜かれて絶命する場面がショッキングだった。

(2008年7月10日/岸田裁月) 


参考文献

『マフィアの興亡』タイムライフ編(同朋舎出版)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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