ジャン=バティスト・トロップマン
Jean-Baptiste Troppmann (フランス)



ジャン=バティスト・トロップマン

「犯罪年表」を御覧になればお判りかと思うが、19世紀までの殺人事件の殆どが金目当てか痴情の縺れ、怨恨に基づくものであり、殺人そのものを目的とする快楽殺人は存在しなかった。辛うじてジル・ド・レエリゼベート・バートリがカウントされるぐらいである。しかし、お殿さまにお姫さまのこの2人は例外だ。生活に余裕があるからこそ趣味に興じることが出来たわけで、喰うや喰わずでカツカツの庶民は生きるだけで精一杯だったのだ。
 ところが、産業革命を経て経済が潤い、庶民の生活レベルが向上すると、殺人という趣味に興じる不埒な輩がポツリポツリと現れ始めた。その萌芽と思えるのがこのジャン=バティスト・トロップマンの事件である。たしかに、彼の目的は金だった。しかし、その犯行はあまりにも惨忍で、殺人そのものを楽しんでいたフシがある。この男こそが現代の病理、連続殺人の元祖なのかも知れない。

 1869年9月23日、パリ郊外の野原で作業をしていた人夫が、最近掘り起こされたばかりのところがあるので不審に思い、
「死体でも埋まってるんじゃねえべか?」
 などと冗談まじりに掘ってみると本当に出て来たので、いんやあ、びっくらこいたべ。しかも、その数が尋常じゃない。1人の成人女性と5人の子供が埋まっていたのだ。女性は30ケ所もナイフで滅多刺しにされており、まだ幼気な子供たちも喉を掻き切られたり、首を絞められたり、腹を裂かれたりと様々な方法で殺されていた。まともな人間の仕業とはとても思えなかった。
 聞き込みにより、遺体はルーベー在住のオルタンス・キンクとその子供たちであることが判明した。彼らは9月19日にパリのホテルに投宿していた。

 やがて馬車の御者から有力な情報が寄せられた。19日の夜、夫人と子供たちを現場付近まで乗せたというのだ。馬車には他にも1人の男が乗っていた。降りる際に夫人は、
「お父さんに会いに行ってくるから、あなたたちはここで待っててね」
 と、年少の子供3人を馬車に残して、男と共に闇へと消えた。30分ほどして男だけが戻って来て、
「この子たちは俺が連れて行くから、あんたはもう帰っていいよ」
 なにやら胡散臭いものを感じたが、あれこれと詮索する権利も義務も彼にはないし、まさか皆殺しにするとは思いもしない。その日はそのままパリに帰った。後日、新聞で事件を知り、震え上がった次第である。

 まもなくイギリス海峡に臨む港町、ルアーヴルで容疑者が逮捕された。アメリカに高飛びしようとしているところを警官に取り囲まれ、必死の思いで海に飛び込んだものの、すぐさま引き上げられてパリに護送されたのである。男の名はジャン=バティスト・トロップマン。キンク夫人と同じルーベー在住の機械工だった。
 トロップマンはかなりの金を所持していたばかりでなく、キンク家の不動産権利書やら借地契約書やらを所持していたことから、彼の犯行と見て間違いなかった。ところが、尋問されたトロップマンはこのように弁明した。

「被害者の夫、ジャン・キンク氏と出会ったのは、アルザスで紡績機械を売り歩いていた時のことでした。同郷のよしみで話が弾み、それから親交が始まったのです。
 やがてキンク氏から悩みを打ち明けられました。奥方が不貞を働いているというのです。どうしても許せない。もう殺すしかないと思いつめていました。そして、その手助けを依頼されたのです。当初はもちろん断りました。でも、大金を積まれては断れませんでした。私は奥方と子供たちを誘い出しただけです。殺したのはキンク氏と長男のギュスターブです」



当初は夫と長男の犯行と思われていた

 一応、筋が通っているように思える。実際にジャン・キンクと長男のギュスターブは行方不明だった。逃走中の可能性も否定できない。
 しかし、妻が憎いならば妻だけ殺せばよいわけで、5人の子供まで殺す理由がない。それが不倫相手の子なら話は別だが、長男までもが可愛い弟や妹たちを惨殺するというのは解せない話だ。それでも大衆がトロップマンの供述を信じたのは、おそらく単なる物盗りの犯行にしては凶悪に過ぎるという当時の常識が働いたのだろう。

 ほどなくギュスターブの遺体が現場付近で発見されて、トロップマンの嘘が露見した。それでも彼は「キンク氏が殺したキンク氏が殺した」とオウムのように繰り返していたが、2ケ月後に当のジャン・キンクの遺体がアルザスで見つかり、ようやく諦めて事の次第を打ち明けた。

 アルザスでジャン・キンクと懇意になったトロップマンは、キンクがブラシ工場を経営していることを知って妬ましく思った。その財産を奪って俺も一旗上げようと、嘘の投資話を持ちかけて郊外に誘き出し、青酸入りのワインを飲ませて殺害した。ところが、キンクは小切手帳しか持っていなかった。あら、ショックぅ! とんだ番狂わせである。
 仕方がないのでルーベーまで出向いて奥方に会い、
「御主人が右手に怪我をされて小切手にサインすることができません。代わりに現金を引き出して頂けないでしょうか?」
 オレオレ詐欺の出張版みたいなことをやってみたが信じてくれない。かくなる上は皆殺しじゃ。手始めに手強そうな長男を始末し、
「御主人がパリで待っています。その際は現金や証書も忘れずに」
 言葉巧みに誘い出し、順繰りに殺害したのである。

 1870年1月19日に行われたトロップマンの処刑はちょっとした見世物だったという。刑務所のまわりには前夜のうちから何千人という見物人が陣取り、屋台が並ぶ大盛況。ツルゲーネフ等、当時の文士や文化人までもが招待されて、所長にフォアグラやワインを振る舞われた。大観衆が見守る中、サクッと斬り落されたトロップマンの生首は執行人の手にガブリと喰いつき、そのまま離れなかったとの逸話も残っている。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪者列伝』アラン・モネスティエ著(宝島社)
『犯罪コレクション(上)』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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