キャロル・コール
Carroll Edward Cole (アメリカ)



キャロル・コール

 連続殺人者は大概、幼少期に多大なトラウマを負っている。キャロル・コールはその典型例だろう。
 まず名前だ。「キャロル」という名前から、私は当初、女かと思った。ところが、写真を見ればおっさんだ。この名前ゆえに彼は学校でイジメられた。母親も幼少期の彼にスカートやフリルのついたブラウスを着せていたという。女の子が欲しかったのだろうか? とにかく、彼はこの名を嫌い、物心がついた頃からミドルネームのエドワードを名乗っていた。
 これに母親の虐待が加わる。夫が第二次大戦に出征すると、彼女は頻繁に浮気をした。キャロルはそれを見せつけられていたという。そして、情事の後に「ダディには云うなよ」と頬をつねられたのだ。時には殴られ、時には鞭打たれた。長年に渡る虐待でキャロルの心はねじ曲がってしまった。そして、母親を憎み、ひいては地球上の全女性を憎悪するに至ったのである。

「女を殺したい」

 こんな邪悪な衝動に駆られたキャロルは、自ら進んで精神科医に相談した。しかし、人格障害と診断されて、何らの治療も施されなかった。当時は人格障害は治らないというのが定説だったからだ。
 かくして野獣は野放しにされて、1980年11月に逮捕されるまでに多くの女性が犠牲になった。自白によれば犠牲者の数は35人にも及ぶ。しかし、殆どの場合において彼は泥酔しており、故に細かいことまで記憶していない。ただ「女を殺した」ことを憶えているのみである(彼はそのことを取調官に詫びたという)。従って、ここでは判っていることのみを記すに留める。本人でさえ憶えていないのだから書きようがない。

 キャロルの最初の殺人は10歳の時のことだという。名前のことで彼をイジメたクラスメイトを湖で溺れさせたのだ。しかし、この件は事故として扱われて、キャロルが罪を問われることはなかった。少年期に友達を溺死させた経歴は「デュッセルドルフの吸血鬼」ことペーター・キュルテンと似ている。しかし、キュルテンは過度のサディストだったのに対して、キャロルの動機は復讐だ。後の女性に対する暴虐も全て「母親に対する復讐」だったのである。

 嫌な思い出しかない学校を卒業したキャロルは流れ者になり、各地を転々と渡り歩いた。そして、窃盗や強盗を繰り返し、何度も警察のお世話になった。
 成人後の最初の殺人は1971年5月7日のことである。カリフォルニア州サンディエゴでエシー・バックを拾ったキャロルは、衝動を堪えきれずに絞め殺したのだ。この時、彼は容疑者として警察に尋問されたが、証拠不十分のために不起訴となっている。

 1975年にはワイオミング州で、翌年にはオクラホマ州で殺人を繰り返したと証言している。その際に彼は遺体を切り刻み、ステーキにして食べたと付け加えた。

 1977年にはネバダ州ラスベガスでキャサリン・ブラム他2名を、1979年にはサンディエゴでボニー・オニールを絞殺した。
 そして、1980年11月にテキサス州ダラスで立て続けに3人を殺害してお縄となったのである。まずドロシー・キングを彼女のアパートで絞殺した翌日、ワンダ・ロバーツをバーで拾って駐車場で絞め殺した。その後、ドロシーのアパートに取って返して遺体を犯したという。数日後にはサリー・トンプソンを彼女のアパートで殺害したわけだが、この時は少々はしゃぎ過ぎてしまった。ドタン、バタン、ギャーッという騒音ゆえに隣人に通報されて、現行犯逮捕されたのである。
 ちなみに、キャロルの犠牲者は殆どが売春婦だった。この辺りにも性的にふしだらな母親への憎悪が窺える。

 まずダラスでの3件で裁かれたキャロルは終身刑が云い渡された。次いでラスベガスでの2件で裁かれた際、死刑を望んでいたキャロルは陪審員なしの裁判を要求した。その方が死刑になる確立が高いと踏んだのだ。そして、希望通りに死刑が云い渡されると、キャロルは判事に礼を云ったという。

 かくしてキャロル・コールは1985年12月6日、薬物注射により処刑された。その不幸な生い立ちゆえに助命嘆願の声も上がったが、キャロルは再審への道に見向きもしなかった。連続殺人者にしては潔い男である。

(2009年4月19日/岸田裁月) 


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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