バスター・キートン
BUSTER KEATON
(1895-1966)

《主な出演作》
*おかしな肉屋(1917)
*馬鹿息子(1920)
*文化生活一週間(マイホーム)
(1920)
*警官騒動(1922)
*荒武者キートン(1923)
*探偵学入門(1924)
*海底王キートン(1924)
*セブン・チャンス(1925)
*キートン将軍(1927)
*蒸気船(1928)
*紐育の歩道(1931)
*サンセット大通り(1950)
*ライムライト(1952)
*キートンの線路工夫(1965)
*ローマで起こった奇妙な出来事(1966)



ザ・スリー・キートンズ

 バスター・キートン、本名ジョセフ・フランク・キートンは1895年10月4日、ジョー・キートンとマイラの第一子としてカンザス州に生まれた。両親は旅回りのボードヴィル芸人で、当時は「キートン&フーディーニ・メディスン・ショウ」に参加していた。「フーディーニ」とはもちろん「脱出王」の異名で知られる手錠抜けの名人、ハリー・フーディーニのことである。キートンによれば、「バスター」という芸名はフーディーニから授かったものだという。

「私が生後6ヶ月の時のことだ。巡業先の小さな宿で階段を上から下まで転がり落ちたんだ。だが、起き上がった私は、泣き声ひとつ上げずにケロリとしていた。それを見ていたフーディーニが叫んだ。『おまえは『バスター』だ!』と
ね。『転落』という意味だ。そんな名前のやつはいやしない。『転落』だの『墜落』なんて名前は聞いたことがない。ところが、父はこう云った。『この子にピッタリだ。うん、悪くない』」

 バスターの初舞台はその3ヶ月後である。舞台裏のベビーベッドから抜け出した彼は、はいはいしながら舞台に現れたのだ。折しも父ジョーのパフォーマンスの真っ最中だった。その足にしがみついて離れない赤ん坊の姿に客席はやんややんやの大盛況。以来、バスターは舞台の常連となる。

 やがてキートン一家は「ザ・スリー・キートンズ」と名乗り、一座から独立する。4歳のバスターは既に一家の大黒柱だった。当時の新聞にはこうある。
「たしかに、両親の方も捨てたものではない。しかし、若くて末頼もしいバスターが観客の注目を浴びた時には、奥に引っ込むしかあるまい」
 当時から天才的なアクターだった。後に弟のハリー、妹のルイーズが舞台に加わるが、彼らはすぐに退いた。いずれもバスターにはかなわなかったのだ。



小人疑惑が囁かれた頃のバスター

 彼らの舞台はかなり過激なものだった。演目は「子供の正しいしつけ方」。

「私がイタズラをすると、父が客席に投げ飛ばすのだ。私は毎日のように投げ飛ばされて育った」

 どつき漫才どころではない。幼い子供を投げ飛ばすのだ。観客はハラハラの連続だったという。
 だから、これは児童虐待ではなくコメディであることを知らしめるために、妙なカツラをかぶり、無表情を貫く必要があった。例えどんなに痛くても、感情を表に出さないことを彼は父から教えられた。否。教えというよりも、それは強制だった。酒乱のジョーは私生活でもバスターを投げ飛ばしていたのだ。

 バスターの人気が高まるにつれて、官憲や市民団体の横槍が入り始めた。そりゃそうだろう。「ザ・スリー・キートンズ」は明らかに児童虐待禁止法や労働基準法に違反していたのだ。そこでジョーが流した噂が傑作だ。曰く、
「バスター・キートンは小人である」
 たしかに、あの演技力と身のこなしは子供のものとは思えない。人々はしばらくはこの噂を信じていた。

 結局、「ザ・スリー・キートンズ」は1916年秋
に解消した。原因は主にジョーの飲酒癖だ。とにかく酒癖の悪い男だった。誰彼構わず喧嘩を売り、雇い主でさえも殴り飛ばした。泥酔して舞台に上がるようになってからは誰もが終わりを悟った。千鳥足の彼にはもう21歳のバスターを投げ飛ばすことは出来なくなっていたのだ。

 1917年3月末の或る雨の日、新たな仕事を求めてニューヨークを訪れていたキートンは、ブロードウェイの街角で偶然に一人の男と出会う。その愛嬌のある笑顔には見覚えがあった。巡業先のニッケル・オデオンで何度も見た顔だ。ロスコー・アーバックル。「でぶ君(ファッティ)」の愛称で知られる銀幕の喜劇王だった。



キートンとロスコー・アーバックル

 アーバックルもまたキートンのことをよく知っていた。「ザ・スリー・キートンズ」の舞台を何度も見ている。彼は訊ねた。

「映画には出たことがあるかい?」
「いや、撮影所に行ったこともないんだ」
「実はね、俺はマック・セネットのところを辞めて、このニューヨークで仕事を始めるところなんだ。君も来てみないか。俺と一緒にやろうよ。きっと気に入るから」

 好機とはまさにこのことを云うのだろう。翌日にもキートンは東48丁目にあるノーマ・タルマッジのスタジオで映画デビューを果たしていた。『おかしな肉屋』である。製作はノーマ・タルマッジの当時の夫、ジョー・スケンク。後にキートンの多くの作品を製作する人物だ。また、このスタジオではキートンの最初の妻となる女性がスクリプターとして働いていた。ノーマの妹、ナタリー・タルマッジである。
 この日を境にキートンの前に一本の道が開けた。それは映画という山あり谷ありの長い長い道のりだった。

「私が最初にしたことは、カメラマンと友達になることだった。そして、編集室に入り込んで、フィルムのつなぎ方やトリック撮影、舞台ではできないが映画でならできることを学んだんだ」

 キートンは映画という新たなステージでめきめきと頭角を現していった。当初は週40ドルだったギャラも、6本の作品を撮り終えてハリウッドに移転してからは125ドルに、翌年の末には250ドルに跳ね上がった。アーバックル喜劇においてはそれまでは甥のアル・セント・ジョンが主な相棒だったが、次第にキートンが取って代わった。彼は様々なアイディアを提供し、アーバックルが監督する作品において、助監督としての役割も担うに至った。

「シナリオなんて必要なかったんだ。この次は何をやればいいのか判っていたし、予想外のことも歓迎した。それが気に入れば、私たちは何日でも撮影したよ」

 キートンという頼もしい右腕を得て、アーバックルの人気は日増しに高まっていく。今や飛ぶ鳥を落とす勢いだ。そんな折
の1919年12月、アーバックルは大手パラマウントに移籍する。いよいよ長編に乗り出すのである。
 もっとも、移籍とはいうものの、それはジョー・スケンクとパラマウント社長のアドルフ・ズーカーとの合意に基づく、いわば貸出のようなものだった。故に移籍に伴う契約金も、ケネス・アンガーが『ハリウッド・バビロン』で指摘したような300万ドルという破格なものではなかったらしい。
 一方、キートンはというと、ジョー・スケンクの下に留まり、彼がアーバックルのために設立した会社「コミック・フィルム・コーポレーション」の看板俳優に昇格する。あの奇跡とも思える珠玉のキートン喜劇がいよいよ生み出されるのである。

 おっと、その前に忘れてならないのが『馬鹿息子』(1920)である。キートン初の主演映画は他人の作品で、しかも長編だった。ダグラス・フェアバンクス主演で大当りした舞台劇の映画化なのだが、当のフェアバンクスは他の撮影のために出演できなかった。フェアバンクスはプロデューサーに訊ねた。

「俺の役は誰がやるんだね?」
「まだ決まってない」
「ならば、バスター・キートンにやらせてみてはどうだ?」
「そりゃあ無理だ。あいつにはドタバタしかできない」
「いいや、彼ならうまくやる筈さ」

 フェアバンクスの予想通りに、キートンはうまくやって見せた。特に、途方に暮れて静止する演技は「画期的」と絶賛された。キートンはコメディアンとして独り立ちする前に、既に主演俳優として認められていたのである。



『文化生活一週間』

『ハイサイン』(1921年4月公開)
 キートンの監督第1作『ハイサイン』はそれほど悪い作品ではない。どこからともなく地上に落ちて来たキートンが、警官の拳銃をネコババし、友情出演のアル・セント・ジョンの尻を撃ち、射的場でズルをやり、それがために悪党の一味となって、護衛を頼まれた相手を殺さなければならないハメになる物語だ。巻末を飾る仕掛けだらけの館内でのドタバタは絶妙である。しかし、キートンの眼には平凡に映ったようだ。オクラ入りにして(翌年に公開)早速第2作に取り掛かる。

『文化生活一週間』(1920年9月公開)
『マイホーム』の邦題でも知られるこの作品は、結婚したてのキートンがマイホームを作る物語だ。ところが、恋敵のイタズラにより、なんとも奇妙な家が出来上がる。玄関は2階にあり、風が吹けば家全体がメリーゴーランドのようにクルクル回る。まったく新しい喜劇である。新聞各紙は絶賛した。
「喜劇界における今年最大の出来事」
 90年近く経った今でも新しい。キートンは未来永劫に残る作品を作り上げたわけだが、当時の人々はそこまで画期的だとは思ってなかったようだ。愚かなり。



『囚人13号』

『囚人13号』(1920年10月公開)
 かなりの部分が欠落している残念な作品である。しかし、アーバックルの作品は全く残っていないものが多いので、辛うじて現存していただけでも有り難いと思うべきなのだろう。
 死刑囚と間違えられたキートンが絞首刑に処される。ところが、紐がゴムにすり替えられていてビヨンビヨン。そんなブラックジョークが満載の小粋な作品だ。後半で、今度は刑務官に扮したキートンが、紐付き分銅を狂ったように振り回して囚人どもを撲殺するシーンは圧巻である。

『案山子』(1920年11月公開)
 隣の娘を巡って男やもめの親子が争う『案山子』は、前半はキートンお得意の珍妙なる発明で笑わせる。蓄音機のレコードをはずすとガスコンロ。塩や胡椒、ソースの類いは紐を引っ張れば棚から飛び出す。食器はすべてテーブル板に貼付けられており、板ごと壁に立て掛けてシャワーで流せばアッという間に洗浄完了。ベッドを起こせばピアノとなり、風呂を倒せばソファになる。物臭な男やもめに便利な品の数々が続々登場。よく考えたなあと感心しきりだ。思うに、スナッブ・ポラードの『これは天才』は本作のパクリである。

『隣同士』(1920年12月公開)
 ロミオとジュリエット下町版『隣同士』では、アクロバティックな演技に磨きがかかる。10メートルはあろうかという高い高い柱の上からキートンは、電線を伝ってスルスルスルと滑り降りる。なにげなく演じているが命懸けだ。最大の見どころは「3人肩車」。3階の部屋に閉じ込められたキートンは、やはり向かいの3階にいる愛しいあの娘と駆け落ちするため、2人の友人に頼んで、その肩に立って空中を移動する。バレそうになると、1段目の奴は1階の窓に、2段目の奴は2階の窓に、そしてキートンは3階の窓に飛び込む。これを何往復もする。最終的にはキートンが娘を担いで、肩車のまま小走りで逃げるのだ。まるで漫画である。



『化物屋敷』

『化物屋敷』(1921年2月公開)
 怪談をミックスした新趣向の作品『化物屋敷』では、キートンはウォール街の銀行員に扮する。接着剤をひっくり返す大騒動の後、強盗に間違われて化物屋敷に逃げ込む。キートンを襲う物の怪たち。上ろうとすると滑り台になる階段。坐ると抱きつく椅子。己れの首をもぎ取って手渡してくれるノッポさん。インドの修行僧のような風貌の変なジジイ。全身タイツの骸骨二人組は、バラバラ死体を組み立てて遊んでいる。遂に命を落としたキートンは天国の階段を駆け上がる。ところが、神様に拒まれて、またしても階段を滑り落ちて地獄行き。

『ハードラック』(1921年3月公開)
 キートンの作品にはブラックなものが多い。『ハードラック』はその最たるものだ。仕事を失い、恋人にも捨てられたキートンは、冒頭から自殺を試みるのだ。線路に寝れば、電車は手前で止まってしまう。首を吊れば、枝がビヨーンと曲がって地面に足がついてしまう。何をやっても死ねない姿が滑稽だ。このシークエンスだけで1本の映画にしてもよかったと思う。最後に新たな恋を見つけたキートンは、プールの飛び込み台から飛び降りて地面に激突、あっさりと死んでしまう。



『強盗騒動』

『強盗騒動』(1921年5月公開)
 旧邦題『悪太郎』のこの作品で、キートンは無実の罪で指名手配される男の悲喜劇を描いた。奇しくもその公開の4ヶ月後、ロスコー・アーバックルが無実の罪で逮捕される。容疑は強姦殺人だった。
 キートンは親友のために証言台に立とうとしたが、アーバックルの弁護人に断られてしまう。ハリウッド・スターの証言はかえって陪審員の心証を悪くすると判断されたためである。
 アーバックルは最終的に嫌疑を晴らした。が、コメディアンとしてのキャリアは終わった。

「ロスコーを待ち受けていたのは半狂乱の群衆だった。少し前まではあれほど好きだった男に向かって、彼らは罵声を浴びせた。『ひとごろし!』『けだもの!』『へんたい!』。ロスコーはこの恐ろしい経験を決して忘れることができなかった」

 ジョー・スケンクは、アーバックルのための会社だった「コミック・フィルム・コーポレーション」を「バスター・キートン・プロダクション」と改めなければならなかった。しかし、アーバックルを見捨てたわけではない。キートン映画の総利益の35パーセントがアーバックルに支払われるよう取り計らったのである。また、スケンクは1923年にアーバックルのための会社「リール・コメディ・インコーポレーテッド」を設立。アーバックルはここで「ウィリアム・グッドリッチ」の名で短編を監督することで糊口を凌いだ。
 キートンとスケンクは、アーバックルの単なるビジネス・パートナーではなかった。彼らは真の友として生涯に渡ってアーバックルを支え続けた。キートンにとっては、それは自らを映画の世界に引き入れてくれたことへのささやかな恩返しであった。



『一人百役』

『一人百役』(1921年10月公開)
 超人的なスタントを追求する一方で、キートンはトリック撮影にも積極的に取り組む。その最も顕著な例が『一人百役』である。ここでキートンは多重露出の手法を用いて、出演者からオーケストラ、観客に至るまですべてキートンという夢のような劇場を作り上げた。メトロノームでタイミングを合わせたというが、当時の手動カメラでは至難の技だ。スタッフの苦労が偲ばれる。

『船出』(1921年11月公開)
『文化生活一週間』の続編というべき作品である。二人のチビすけに恵まれたキートン夫妻は、今度は1階のガレージで船を作る。ところが、完成した船は大き過ぎて搬出できない。それでも無理矢理引っ張り出すと、家が倒壊してしまう。このシーンは何度観ても吹き出してしまう。進水式で船と共にゆっくりと海に沈むキートンの姿が実に印象的である。

『白人酋長』(1922年1月公開)
 キートンにしては珍しくハッピーエンドな作品。インディアンのために土地の権利を勝ち取ったキートンは、酋長の娘に求婚する。熱烈に接吻する二人。「2年後」のテロップの後に画面が戻ると、二人はまだ接吻し続けている。



『警官騒動』

『警官騒動』(1922年3月公開)
 キートンが遂に打ち立てたサイレント喜劇の金字塔。キーストン・コップスの応用編だが、とにかく警官の数が半端じゃない。何十人、否、何百人という警官が一人の男を追い掛ける。圧倒的である。理屈ではない。視覚にのみ訴える迫力がここにはある。サイレントでなければ出来ない作品である。無実の男を群衆が追いつめるという意味において、アーバックル事件への批判にもなっている。

『キートン半殺し』(1922年5月公開)
『華麗なる一族』の邦題でも知られる本作は、キートンが妻の一族に半殺しにされる物語だ。これにはキートンの実生活が少なからず反映されている。
 1921年5月31日、キートンはナタリー・タルマッジと結婚する。姉のノーマとコンスタンスは当時の大女優。キートンは「喜劇役者」ということで格下に見られていた。キートンの最後の妻、エレノアのこんな証言がある。

「当初は二人とも愛し合っていました。しかし、母親のペグは末娘を自分の眼の届くところに嫁がせたかっただけなのです。義理の息子のジョー・スケンクは、ノーマとコンスタンス、そしてバスターの映画を製作していました。末娘をバスターの嫁がせることで、一家は安泰だったのです。
 ところが、タルマッジ家にとってはバスターの映画は所詮コメディでした。ビジネスとしても重要なものではなく、娘の夫としてもふさわしくなかったのです」

 そのくせタルマッジ家の連中は、アル中の親父も含めて、キートンの新居に住み着いた。まったくふてえ一族である。この点、淀長さんのこんな面白い話がある(対談相手は山田宏一氏)。

淀川「姉さん二人が大金持ちで大人気者だから、きっと過保護だったのね。あんまり映画に出なくって、家系はタルマッジ家だから、威張っとったにちがいない。それと結婚したのね、キートンは。随分やられたらしいな。つまりわがまま女で」
山田「ハリウッド一の屋敷を買わされたりなんかしたわけですね」
淀川「『ゴッドファーザー』に出てくるプロデューサーの家が、そうね。あれがキートンの家だって聞いてびっくりしたのね。その前はマリオン・デイヴィスの家だった」
山田「マリオン・デイヴィスといえば、『市民ケーン』のモデルになった新聞王ハーストのお妾さんだった女優ですよね」
淀川「そうなのよ。大邸宅よ、だから。それをキートンが買ったらしいの。つまり、キートンはそんなの買うような人じゃないけれど、きっとヨメさんのナタリーが欲しいといったんだ(笑)。それから、ナタリーと別れて、キートンは落ちぶれて、二度目の奥さんがずっと後に日本に来ましたね。いい人でしたなァ」
(以上、青土社刊『シネアスト6/喜劇の王様』より)

 淀長さんは勘違いしておられる。エレノア・キートンは三度目の奥さんである。それはともかく、キートンにとって何よりも堪らなかったのは、夫婦生活にも二人の姉が口を出したことだった。己れの名声を重んじた二人の姉は子供を作ることを避けていた。そして、そのような「動物的なふるまい」はやめるべきだとナタリーにも強要したのだ。二人の男の子を産んだ後、ナタリーは姉の命に従った。以後、二人の夫婦生活は途絶えた。まさに「キートン半殺し」だ。誠に愚かなタルマッジ一族である。



『空中結婚』

『鍛冶屋』(1922年7月公開)
 比較的オーソドックスな作品。鍛冶屋の見習いに扮するキートンが名馬や名車を台無しにする。

『北極無宿』(1922年8月公開)
 キートンはアラスカの無頼漢。帰宅した彼は妻の浮気を目撃し、間男ともども射殺する。ところが、よくよく見れば妻でない。
「しまった。隣の家と間違えた」
 ひどい話である。珍しくキートンが女性に対して高飛車な異色作。ラストで実は夢だったってなオチがつく。

『電気館』(1922年10月公開)
 大学の総長に屋敷の電気化を依頼されたキートン。ところが、ライバルの妨害のために滅茶苦茶になる。自動階段等、様々な発明を披露する。ラジコンのSLが料理を運ぶ装置は、実生活でも使っていたそうである。

『成功々々』(1922年11月公開)
 恋人への手紙に自らの成功を書き綴るキートン。ところが、実際は失敗の連続で、今や警察に追われるお尋ね者。嘘がすべて露見して、恋人の父親は彼に自殺を促す。その自殺にも失敗して、嗚呼、本当にダメな男の物語。

『空中結婚』(1923年1月公開)
 気球での
ランデブーを描いたファンタスティックな作品。キートンはいつものように失敗の連続だが、今回は見事に彼女のハートを射止める。

『捨小舟』(1923年3月公開)
 失恋したキートンが小舟で海を漂流する冒険譚。途中で捕鯨船に拾われて、鬼船長に扱き使われる。船を沈めて復讐を果たしたキートンは、軍事演習をする海軍の標的となってあの世行き。

 この後、キートンはいよいよ長編に乗り出す。



『恋愛三代記』


『荒武者キートン』

『恋愛三代記』(1923年9月公開)
 キートンの長編第1作はD・W・グリフィス監督『イントレランス』のパロディである。石器時代、古代ローマ、そして禁酒法時代のアメリカの三つの時代を行き来しながら、人類普遍のテーマ「恋愛」を描く。
 このような構成になったのは、キートンにまだ長編を作る自信がなかったからだと云われている。失敗だと判れば、3つの短編にバラして上映するつもりだったのだ。故に本作は長編に向けたウォーミングアップだったと見るべきなのだろう。

『荒武者キートン』(1923年11月公開)
 本作をキートンの最高傑作に推す人は多い。地味ながらも、極めてよく出来た作品である。
 舞台は19世紀初頭のアメリカ東部。長年に渡って血なまぐさい抗争を続けてきたキャンフィールド家とマッケイ家。その末裔であるキートン扮するウィリー・マッケイが命を狙われる物語だ。
 本格的な長編の製作にあたって、キートンは従来の漫画的なギャグを封印、リアリズムを重視した。そうでなければ観客を70分も繋ぎ止めることは出来ないと考えたからだ。時代考証にこだわり、スティーヴンソンが発明した初期の蒸気機関車を完全に再現した。このシーンが実に楽しい。デコボコの山道をノロノロガタガタと汽車が行く。なんとものどかな光景である。その後をキートンの飼い犬がトコトコと付いて来る。そして旅先で御主人様を尻尾を振り振り迎えるのだ。驚くキートン。
「どうしてお前がここにいるんだ!?」

 キートンお得意のスタントも好調である。川に落ちたキートンは激流に飲まれて流される。
 実はこのシーン、本物のアクシデントだったという。命綱が切れてしまい、溺死寸前だったのだ。演技でないキートンの動揺がカメラにしっかりと収められている。
 そして、滝の手前でどうにか留まり、同様に流されるヒロインをジャンピング・キャッチ。さすがに本物の滝ではなく、撮影所に拵えたセットだが、それでも至難の技であることには変わりない。観客は拍手喝采である。

 なお、ヒロインを演じるのは妻のナタリー・タルマッジ。キートン・ジュニアも主人公の幼少時代として出演している。また、間抜けな機関士に扮するのは、キートンの父親ジョー・キートンである。



『探偵学入門』

『探偵学入門』(1924年4月公開)
 旧題『忍術キートン』の本作は、前作とは打って変わって、漫画的なギャグが目白押しだ。漫画的なのも道理、すべてが夢の中の物語なのである。
 窃盗の容疑をかけられた映写技師のキートンは、映写中に不貞腐れて寝てしまう。すると、夢の中の映画でも盗難事件が発生。キートンは映画の中に入り込み、難事件を解決する。
「映画の中に入る」というアイディアが秀逸である。客席から舞台に上がり、映画に入り込むキートン。ところが、悪漢に押し出されてしまう。再び入り込んだものの、どういうわけか背景がコロコロと変わる。玄関先が交差点に変わる。車に轢かれそうになるキートン。慌てて逃げると、崖の上に変わって落ちそうになる。ライオンに囲まれたり、汽車に轢かれそうになったり、溺れそうになったりする。困り果てたキートンの姿で画面はフェイドアウト。次の場面でキートンはようやく映画に受け入れられて「シャーロック・ジュニア」の役を与えられる。

 後半はキートンが舞台で培った離れ技の連続だ。窓を飛び抜けると衣装が変わる早技や、鞄の中に飛び込む脱出技等々。
 スタントマンを使わない彼は怪我が絶えなかった。本作の撮影中にも首の骨を折っている。列車の屋根を走り、給水塔のノズルに掴まって落下する場面である。エレノア・キートンは語る。

「彼は大量の水を浴びて落ちるのですが、水の勢いを誤算していました。線路に叩き落とされた彼は後頭部を強打して、撮影は数日間中断されました。その後も数ヶ月は酷い頭痛に悩まされたそうです。それから10年ほど経った或る日、彼は検査した医師に訊かれました。『いつ首を骨折したんですか?』『首を骨折?』『ええ、折れてますよ』。彼はしばらく考えて『ああ、あの時だ。給水塔から落ちて後頭部を打ったんです』。医師は『なるほど』と納得したそうです」

『探偵学入門』は大ヒットしたが、批評は芳しくなかった。曰く「独創性に欠ける」。この作品のどこが独創性に欠けるのか?。当時の批評家はバカったれか?。



『海底王キートン』

『海底王キートン』(1924年10月公開)
 キートンは大富豪のどら息子。ひょんなことから愛しいあのコと二人きり、大型客船で漂流するハメになる。当初はコーヒーの入れ方も缶詰の開け方も判らなかった二人だが、ひと月もすれば人間どうにかなるもんだ。創意工夫で逞しく生きて行く。ところが、南海の孤島で船は座礁してしまう。穴ぼこがあいて沈没寸前。かたや孤島に待ち受けるのは食人族だあ。前門の虎、後門の狼。我らがキートンの運命や如何に?。

 興行的に最も成功したキートン作品である。本作を機にキートンはドル箱スターの仲間入りを果たした。
 切っ掛けは「バフォード号」という大型客船の廃棄処分だった。この情報を耳にしたキートンは2万5千ドルで買い上げ、その上でストーリーを練り上げた。船の小道具を利用したギャグが随所にちりばめられている。

 前作のような派手なスタントはないが、キートンはこのたび潜水に挑んでいる。酸素ボンベなどない当時はかなり危険な行為だ。それでも自らが潜ったのだから大した役者馬鹿である。
 撮影はタホ湖で行われた。箱に入ったカメラとカメラマンを湖底に沈めての撮影である。おそらく史上初めての本格的な水中撮影だろう。ただ、水温が低すぎて30分と潜っていられなかった。水中シーンだけで4週間も要したというから労作である。



『セブン・チャンス』

『セブン・チャンス』(1925年3月公開)
『海底王キートン』の大成功にもかかわらず、キートンは興行的にはロイド、チャップリンに続いて3番手だった。そこで、より多くの収益を望むジョー・スケンクは、キートンにロイド作品のような原作を買い与えた。それが『セブン・チャンス』である。

 若い頭取の主人公は経営に失敗して破産寸前。そんな彼に吉報が舞い込む。700万ドルにも及ぶ祖父の遺産を相続できるかも知れないのだ。但し、条件は「27歳の誕生日、午後7時までに結婚すること」。なんと期日は今日だ。かくして主人公は7人の花嫁候補に求婚しまくるハメになる。

 諸君は御案内かと思うが、ハロルド・ロイドの作品は基本的に「都会の軽薄な若者が困難に立ち向かい、悲惨な目に遭いながらも最後には成功する」という物語だ。それは
アメリカン・スピリットの具現化であり、だからこそチャップリンのペーソスよりも当時の大衆に支持されたのである。そして、そのような物語をスケンクはキートンに押しつけたのだ。妻のナタリーのために出費が嵩むキートンを思ってのことなのだろうが、スケンクは商売人だが映画に関してはド素人だ。キートンとロイドではキャラクターが違う。ロイドのようなヤング・エグゼクティブになれる筈がない。キートンは考え込んでしまった。

「それは酷い映画で、スタッフにもそのことは判っていた。まったくお手上げの状態だった」

 そんな不毛の作品を救ったのは、まったくの偶然だった。

「花嫁募集の広告で集まってきた女性の大群から逃げるという短い場面があってね。私は彼女たちを野外に連れ出して、追い掛けっこの撮影を始めた。
 丘の斜面を駆け下りている時だった。丘には石がいくつもあって、私はその一つに偶然にぶつかってしまったんだ。それが転がり出して、別の二つの石にぶつかった。後ろを振り返ると、さっきの三つの石が転がり落ちてくる。ボーリングのボールぐらいのが三つ、私の方に向かってくるんだ。必死に走って逃げるしかなかった」

 このシーンを或る試写で上映したところ、客席は爆笑の渦。
 これだ!。これでこの作品が救える!。
 かくして大小合わせて1500個もの石がキートンを追い掛ける、あの超現実的なシーンが実現されたのである。

 キートンは評論家に褒められることよりも、金を稼ぐことよりも、何よりもまず笑いを優先した。何故なら彼はコメディアンだからだ。チャップリンのような芸術家じゃない。笑えないコメディを作ることは、彼には我慢できなかったのである。



『西部成金』

『西部成金』(1925年11月公開)
 地味ながらも魅力的な作品。本作がどうして今日埋もれてしまっているのか不思議でならない。キートンと雌牛の愛を描いた傑作である。


 何をやってもダメなキートン、貨物列車無賃乗車の旅。西部の荒野で転がり落ちて、カウボーイ見習いとなる。案の定、失敗の連続だが、雌牛の「ブラウン・アイズ」だけには何故か好かれる。彼女もまた牛仲間から蔑まれていたのだ。キートンは生まれて初めての友人と寝食を共にする。
 そんな或る日、牧場主は5000頭を出荷する。愛しいあのコも売られてしまう。そんなことされてたまるか!。彼女を救うためにキートンは、屠殺場行きの家畜車両に乗り込むのだった。
 ドナドナド〜ナ〜ド〜ナ〜、雌牛とキートンを乗せて列車は揺れる。

 たしかに、前半は笑いが少ない。だだっ広い荒野でキートンが途方に暮れている印象である。しかし、後半で一気に炸裂。出荷先のロサンゼルスで5000頭の牛が逃げ出すのだ。ブティックが、床屋が、はたまたデパートが牛の大群で溢れかえる。都会は大パニックである。その後の『鳥』や『ウイラード』をはじめとする「動物パニック映画」の先駆けと云えよう。
 これを赤い「悪魔」の衣装を着て先導するキートン(どうして「悪魔」かというと、赤い衣装が他に見つからなかったから)。追い掛ける牛の大群。走るキートン。走る大群。ロス市内を尻尾と角をはやした全身タイツのキートンと牛の大群が暴走する様はまさに悪夢の如き。凄まじい光景である。
 どうにか牛の大群を屠殺場に送り届けたキートンは牧場主に感謝される。
「欲しいものは何でも云ってくれ」
「それでは、彼女をください」
 牧場主は自分の娘のことだと思って躊躇する。ところが、キートンが連れて来たのは「ブラウン・アイズ」だ。大笑いする牧場主。やがて娘も彼のものになることを暗示して終幕となる。如何にもキートンらしい「ハッピーエンド」である。

 本作はチャップリン映画のペーソスを取り入れたものだとの指摘もある。たしかに、それはあるだろう。前作『セブン・チャンス』でロイドを意識したように。しかし、キートンが恋するのは盲目の少女ではなく雌牛なのだ。このあたりの皮肉な態度がチャップリン映画とは一線を画するキートン映画の魅力なのである。



『拳闘屋キートン』

『拳闘屋キートン』(1926年9月公開)
『セブン・チャンス』と同様に、ジョー・スケンクに原作を買い与えられた作品。ロイド映画のような物語は独創性に欠けるが、『海底王キートン』と並ぶ興行成功を修めた。

 アルフレッド・バトラーは大金持ちの馬鹿息子だ。一人では着替えすら出来やしない。何をするにも執事の世話になっている。
 この執事に扮するのが『セブン・チャンス』の弁護士、スニッツ・エドワーズ。前回同様にイイ味を出している。名傍役である。
 息子のへなちょこぶりに業を煮やした父親は「キャンプで鍛えろ」と命ずるが、執事がお供するので家にいるのと変わりゃしない。大きなテントでベッドで眠り、優雅にディナーにパクついていやがる。
 そんな或る日、森の中で一人の娘と出会う。
「あのコと結婚しようと思う。宜しく取り計らってくれ」
 求婚も執事まかせの馬鹿息子だ。ところが、娘の親父は、
「あんなへなちょこに娘はやれん!」
 そこで執事は嘘をつく。折しも馬鹿息子と同姓同名のボクサーが売り出し中だったのだ。
「お坊ちゃまはこのたびチャンピョンに挑むバトリング・バトラーざんすよ。へなちょこではございません」
 おお、あいつがあの拳闘家だったのか。求婚は無事に受け入れられるが、この嘘のために馬鹿息子はリングに立つハメになるのであった。

 原作の舞台劇では、馬鹿息子は結局、対戦することなくハッピーエンドを迎える。しかし、これでは70分は持たない。そこでキートンは楽屋で二人のバトラーを対戦させることにする。たったいま挑戦者を倒したばかりのバトリング・バトラーが、馬鹿息子を罵倒して一方的に殴りつける。当初はやられっぱなしの馬鹿息子だったが、恋人の顔を見た瞬間、闘争本能に火がつく。それまでのへなちょこが一転、狂暴な拳闘家に変貌するのだ。
 キートンはこれまで感情を表に出さなかった。笑いもせず、泣きもしない。ところが、このたびは初めて怒ったのだ。怒りの表情を露にして猛然とチャンピョンに立ち向かうキートン。静かな男はキレると怖い。チャンピョンを床に叩きのめしても、尚も殴り掛かる。トレーナーや執事が止めに入らなければ殴り殺してしまうところだった。

『拳闘屋キートン』はキートン作品としてはやや劣る。しかし、ラストの怒りの闘魂は必見である。キートンがキレるその瞬間の演技は素晴らしいの一語に尽きる。



『キートン将軍』

『キートン将軍』(1927年2月公開)
『拳闘屋キートン』の大成功により財政的に潤ったキートンは念願の企画に取り掛かる。製作費42万ドルの大作『キートン将軍』である。間違いなくキートンの最高傑作であると同時に、最も優れた無声映画の一つでもある。かつてキートンは『イントレランス』のパロディを作った。そんな彼が遂に『イントレランス』と並び称される作品を作り上げたのである。

 物語は単純明快だ。北軍のスパイに蒸気機関車と恋人を奪われたキートンがたった一人で取り戻す。笑いあり、スペクタクルありの一大戦争絵巻である。南北戦争マニアのキートンは細部にまで凝りまくり、当時の風景を完全に再現した。
 ところが、批評は芳しくなかった。おそらく「一介のコメディアン」が本格的な南北戦争映画に挑んだことに戸惑いを覚えたのだろう。

「かつての労作より遥かに劣る」(NYタイムズ)
「笑いとはほど遠い」(バラエティ)
「退屈、あまりにも退屈」(デイリー・ミラー)
「ギャグの多くが悪趣味である」(ライフ)

 本作の真価を見抜いていた評論家はごく一部だけだった。結果、興行収入は47万ドルに留まる。『拳闘屋キートン』よりも30万ドルも少なかった。



『大学生』

『大学生』(1927年9月公開)
『キートン将軍』の興行的大失敗により、キートンは作品の自由を完全に奪われてしまう。スケンクが送り込んだマネージャー、ハリー・ブランドの監視の下、監督権まで剥奪されてしまうのだ。結果、『大学生』は最もキートンらしからぬ作品となった。ハロルド・ロイドのヒット作『人気者』の完全なパクリである。運動音痴の学生が、それでもどうにか頑張ってチームを優勝に導き、最後には人気者になる物語。『人気者』と何処が違うんだ?。キートンはこの作品に辛辣である。

「監督のジェームズ・ホーンは、マネージャーのハリー・ブラントが連れて来た男だが、まったくの役立たずだった。経験は浅くて、ロクなものを撮っていない。どうして彼が必要だったのか判らない。なにしろ実際にあの映画を監督したのは私なんだ。
 脚本家としてクレジットされているカール・ハーボーも役に立たなかった。ギャグのセンスがなかったし、ストーリーの解釈もなってない。だけど、誰かの名前をでっち上げる必要があったんで、スケンクに雇われたんだ」

 それでも『大学生』はキートンの超人的な個人技により、今日でも十分に楽しめる作品に仕上がっている。キートン入門編としては持って来いの作品かも知れない。但し、このたびキートンは初めてスタントマンを使った。棒高跳びのシーンは彼のダブルである。



『蒸気船』

『蒸気船』(1928年5月公開)
『大学生』の興行収入は『キートン将軍』を下回る。それでも金儲けや批評に無頓着なキートンは、ジョー・スケンクを
だまくらかして大金を引き出すことに成功する。そして生み出されたのが、キートン最後の大作にして最後の傑作『蒸気船』である。
 最終的に40万ドルにも及んだ製作費のほとんどは最後のハリケーン襲来の場面に費やされている。セットで町をまるごと作り、次から次へとぶっ壊す。
 キートンの最も有名なスタントはこのシークエンスに登場する。ハリケーンの中、一人佇むキートン。すると背後にある家の壁が倒壊して、あわやキートンぺっちゃんこ。かと思いきや、キートンは窓枠部分にスッポリ収まりキョトンとしている。桂枝雀師匠の云う「緊張と緩和」の笑いが巻き起こる。

 ところが、こんなに面白い作品なのに、興行収入は35万ドルに留まる。つまり、まったくの赤字だったのだ。いったいどうして?。
 原因の一つとして、ユナイテッド・アーティスツの配給だったことが挙げられる。チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、その妻のメアリー・ピックフォード、そしてD・W・グリフィスの4人が自由な作品を配給するために設立したこの会社は、メジャーから独立しているために宣伝力が弱かった。『キートン将軍』も『大学生』もユナイテッド・アーティスツの配給だ。『拳闘屋キートン』
のようにMGMで配給していれば赤字にならずに済んだかも知れない。
 もう一つは、トーキーの登場である。1927年10月に初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が公開されて大評判なって以来、大衆の興味は「しゃべる映画」「唄う映画」へと移っていた。そのためにサイレント喜劇の集大成である『蒸気船』は時代遅れになりつつあったのだ。

『蒸気船』を最後にジョー・スケンクは独立プロを断念し、かつてアーバックルをそうしたように、キートンをMGMに貸し出す。キートン以外の作品も赤字続きだったスケンクとしては已むを得ない決断だった。



『カメラマン』

『カメラマン』(1928年9月公開)
 MGM移籍第1作『カメラマン』は、従来のキートン映画に見られた強烈な個性を欠く「ごく普通のコメディ」である。しかし、普通であるが故に一般受けして、『拳闘屋キートン』以来の大ヒットとなった。

 ニュース映画のカメラマン、キートンは何を撮ってもへなちょこばかり。そんな彼の哀れな姿に母性本能をくすぐられたヒロインは、彼だけに最新情報をこっそり教える。
「がんばってスクープをものにしてね」
 決死の覚悟でチャイナタウンでの銃撃戦を取材したキートンだったが、あらショックぅ。フィルムが入ってないざます。おかげで彼女の顔は丸潰れ。かと思いきや、まさかの大逆転ではっぴいえんど。紙吹雪の中で幕を閉じる。

 MGMでのキートンは監督をやらせてもらえなかった。与えられた脚本をただこなすだけのアクターに過ぎなかったのだ。そのために個性を欠く「ごく普通のコメディ」にしかならなかったのである。
 キートンはこうした不満の捌け口をアドリブに求めた。監督のエドワード・セジウィックと相談し、脚本にはない即興のギャグを随所に織り交ぜた。例えば、無人のヤンキー・スタジアムでの「キートンひとり野球」とか、狭い更衣室の中で太った男とふたりきり「揉み合いへし合い衣装替え」とか。これらの即興シーンゆえに『カメラマン』は今日でも鑑賞の価値ある作品に仕上がっている。
 ところが、プロデ
ューサーはこれを面白く思わなかった。
「どうして脚本にないことを撮るんだ?」
 脚本通りに撮らなければ予算が組めないというのである。以降のキートン作品からはアドリブが消えた。予算はその分だけ少なくて済んだが、その分だけ笑いも消えた。



『結婚狂』

『結婚狂』(1929年4月公開)
 キートン最後のサイレント作品である。脚本通りに撮影されたので、製作費は大幅に抑えられた。撮影期間もわずか5週間である。MGMのお偉方はニンマリだが、キートンにとっては不満が募る。そして、観客の我々にも不満が募る。
 それでも『結婚狂』は後の惨憺たるトーキー作品に比べれば良質の作品と云えるだろう。特に、帆船のマストの上でのアクロバットと、泥酔したフィアンセをベッドに寝かしつけるまでの一連の一人芝居は神業に近い。これがキートンなのだ。
こういうキートンを我々はもっと見たかったのだ。

 キートンの酒量が増え始めたのは妻ナタリーとの関係が冷え始めた1925年頃からだと云われているが、MGMという新たな悩みが加わってからはその量は増すばかりだった。親友で女優のルイーズ・ブルックスは、キートンの珍しい怒りの現場を目撃している。

「あれは1928年の夏、MGMスタジオの彼のバンガローで飲んでいた時のことです。彼は突然立ち上がり、隣の部屋からバットを持ち出すと、四方の壁を覆っている高価な本箱のガラス扉を叩き割り始めたんです。私たちは口もきけずにただ坐っているばかりでした。そして、すべてを割り終えると、何事もなかったように席につき、会話を続けたんです。
 思うに、あれはMGMの重役たちに向けられていたんじゃないかしら。彼は檻を破って脱走しようとしていたのよ。創造の世界に向かって。でも、それは無理だった。彼はお酒のせいで、既に魔法の力を失っていたのよ」

 ちなみに『結婚狂』のヒロイン、ドロシー・セバスチャンは当時のキートンの愛人である。ナタリーとの結婚生活はとっくの昔に破綻していた。



『エキストラ』

『エキストラ』(1930年3月公開)
『結婚狂』と『エキストラ』の間に1年近くものブランクがあったのは、MGMの重役たちがキートン初のトーキー作品をどうしたものかと考えあぐねていたことを物語っている。結果、彼に与えられた役は「悲劇の道化」。まったくもう、チャップリンじゃないんだからさあ。キートンの伝記『バスター・キートン』の著者トム・ダーディスも『エキストラ』を「彼の雇い主たちがどれほどキートンの才能に対して無理解だったかを示す最悪の例」と酷評している。


 とにかく、退屈な作品である。MGMスタジオを見学するキートンが方々で失敗をやらかして、終いにゃ失恋する物語。上映時間のほとんどがMGMスタジオの宣伝に裂かれている。キートンの唄とダンスは貴重だが、それ以外に見どころはない。
 なによりもキートンが腹立たしかったのは、脚本が冗談や駄洒落に終止していたことだ。

「脚本家の連中は駄洒落に大笑いしていた。言葉ばかりを追い、映画的な動きに見向きもしない」

 トーキー初期の段階ではこの傾向は顕著だったようだ。言葉が映画にシンクロする嬉しさから、言葉ばかりを追い求めていた。しかし、キートンはマルクス兄弟などとは違い、言葉で笑わすコメディアンではない。見せるコメディアンなのだ。このことをMGMの重役たちはまったく理解していなかった。

 つづく


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