グレンとグレンダ
GLEN OR GLENDA

米 1953年 67分
監督 エドワード・D・ウッド・Jr.
脚本 エドワード・D・ウッド・Jr.
出演 エドワード・D・ウッド・Jr.
   ベラ・ルゴシ
   ドロレス・フラー


 この作品の世間一般の評価は「最低」だが、私にとってはオール・タイム・ベストの1本である。才能のない一人の映画監督の一世一代のモノローグ(=ひとりごと)。呆れるほどの「才能のなさ」は、かえって予期せぬ映像を可能にした。これほどシュールな映像は滅多に見ることが出来ない。奇跡的な大傑作である。

 時は50年代初頭。三面記事はクリスチーネ・ヨルゲンセンの話題で持ち切りだった。なにしろ第二次大戦の英雄が性転換手術を受けて女になったというのだから、これはもう大事件だった。
 この記事を見るなり「これだあッ」と膝を叩いた男がいた。独立系のプロデューサー、ジョージ・ワイズである。クリスチーネの物語を映画化すれば大ヒット間違いなし。彼の読みは確かだった。ところが、彼はたった一つだけ重大なるミスを犯した。彼はこの企画に、こともあろうに「史上最低の映画監督」エドワード・D・ウッド・Jr.を起用してしまったのである。こうして出来た本作は、何が何やら判らない「前衛映画」となってしまった。


『グレンとグレンダ』は、もともと『私は性転換した』というタイトルの、クリスチーネ主演の映画として企画されたものだった。ところが、クリスチーネに断られたので、結局、女装癖のあるウッド本人が主演することになった。
 物語は或る衣装倒錯者を中心に進む。彼には女の恋人がいる。だからホモではない。しかし、女装をやめることができない。この矛盾に彼は苦悩する.....。以上からも判る通り、これはクリスチーネ・ヨルゲンセンの物語ではない。明らかにエド・ウッド本人の物語である。

 しかも、ウッドはこの映画に、当時モルヒネ中毒で失業状態にあったベラ・ルゴシを出演させた。おかげで映画は余計に混乱することになる。
 ルゴシが演じたのは人類の運命を操る支配者、いわば神のような役である。彼がイタズラしたことで、ウッドの心は女になり、女装を始める.....。
 しかし、映画の中にはルゴシの役柄の説明は一切ないので、観客は大いに戸惑うことになる。なにしろ性転換の物語だと思って観ていると、突然ドラキュラ伯爵が出てきて、例のハンガリー訛りの大袈裟な演技で訳の判らないことを叫びたてるのである。

「気をつけろ。
 玄関には巨大な緑の龍が座っている。
 小さな男の子や子犬の尻尾、太ったカタツムリを食べてしまう」

 何のことやらさっぱり判らない。


 この他にも訳の判らないシーンは山ほどある。
 例えば、ヒロインが恋人の女装癖に悩み、その重荷に苦しむシーン。ウッドは大胆にも彼女を大木の下敷きにして、見たままに「重荷に苦しむヒロイン」を表現してしまった(上写真)。

 突如としてバッファローの暴走が現れて、観客の度胆を抜くシーンもある(上写真)。主人公が執拗に恋人のアンゴラのセーターを撫で回す場面で、何の説明もなく唐突にバッファローの大群が押し寄せてくるのである。思うに、主人公の心に沸き上がる倒錯心の高揚を象徴したのであろうが、それにしても唐突で、観客には何が何やら判らない。

 極めつけは「後ろ指差され組」。己れの女装癖に罪悪感を抱く主人公は、またしても見たままに、皆から「後ろ指」を差されるのであった(左写真)。


 すべてがこんな具合であるから、観客にはさっぱり判らなかったし、出演者にさえも判らなかった。判っていたのはウッド本人だけである。終盤で恋人の女装癖に理解を示し、自らのアンゴラのセーターを譲り与えるヒロインのセリフが如何にも象徴的である(左写真)。

「何だかよく判らないけど頑張りましょう」

 このヒロインを演じたのはウッドの現実の恋人だったドロレス・フラー。彼女は実生活でも理解しようと頑張ったが、遂に理解することはできなかった。2年後にウッドと別れている。

 とにかく判らないことだらけの映画だが、その判らなさが本作の魅力でもある。あのデヴィッド・リンチも本作がお気に入りとかで、そう云われれば、彼の映画の判らなさには本作に通じるものがある(註1)。
 とにかく、映画史に残る「問題作」であることは間違いない。

註1 デヴィッド・リンチのデビュー作『イレイザーヘッド』には、本作からパクったとしか思えないショットがある。


関連人物

エドワード・D・ウッド・Jr.(EDWARD D. WOOD JR.)
ベラ・ルゴシ(BELA LUGOSI)


 

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