シェリル・クレイン
Cheryl Crane (アメリカ)



ラナ・ターナー

 ロスコー・アーバックルに始まり、チャーリー・チャップリンメイベル・ノーマンドクララ・ボウジーン・ハーロウ等、ハリウッドスターのスキャンダルの数々を目にしてきた我々は、ここで初めて例外に出会うことになる。すなわち、これまでのハリウッドスターにとってスキャンダルとは「転落」を、そして「死」を意味していた。アーバックルは酒で命を縮め、メイベルは病死。クララは精神を患い、ジーンも謎の急死を遂げた。チャップリンは死にこそしなかったが、頭髪がすべて白髪になるほどの心労を味わっている。ところが、本稿で扱うラナ・ターナーは、スキャンダルを機にそれまでの落ち目を挽回し、見事スター女優に返り咲いてしまった。スキャンダルがスキャンダルでなくなった最初の例と云えよう。彼女こそは杉田かおるの原型である。もっとも、ラナ・ターナーのそれと杉田のそれは一線を画する。なにしろ彼女が踏み台にしたのは、娘が犯した殺人事件だったのである。

 ラナ・ターナー、本名ジュリアン・ジーン・ターナーは1921年、アイダホ州ウォレスに生まれた。鉱夫をしていた父ジョンは、母ミルドレットと駆け落ちしてこの小さな鉱山の町に住み着いた。従って生活はどん底だったが、貧しいながらも楽しい我が家。幼いラナは真っ黒になって帰って来る父が大好きだった。
 ところが、そんな父はラナが6歳の時に家出する。博打にのめり込んでいた彼は妻と娘を捨てたのである。再会したのは9歳の時、葬儀の席でのことである。父ジョンは一人勝ちしたその夜に、何者かに闇討ちされて死んだのだ。大金を隠し持っていた左の靴は、とうとう見つからなかった。

 ハンサムな父に似たラナは、次第に美しい娘へと成長していった。青い瞳。高い鼻。格好のいい胸。長い脚。母は娘の容姿をつくづく眺めて、こう思ったことだろう。
「映画女優にもってこいじゃないか!」
 かくしてターナー親子は1936年、ラナが15歳の時に映画の都に移り住む。彼女が通ったハリウッド・ハイスクールは、我が国で云えば堀越学園みたいなところである。

 伝えられるところによれば、ラナはサンセット大通りのドラッグストアで麦芽ミルクを飲んでいるところをスカウトされたのだという。しかし、実際には授業をサボってコカコーラを飲んでいるところをスカウトされたのである。その後のいきさつは今では伝説と化している。9ケ月のレッスンの後に彼女に与えられた初めての役は『They Won't Forget』(1937)での「犯された挙げ句に殺されてしまう高校生」という、デビューを飾るにはあまりにも不利なものだった。ところが、これが評判になった。空色のセーターに包まれた彼女の格好のいい胸に野郎どもの目が釘付けになったのである。曰く、
「すげえオッパイ!」
 かくして、ラナ・ターナーは「セーター・ガール」の愛称で、次世代を担うセックスシンボルとして浮上したのである。

 若くして名声を手にしたラナにとって、ハリウッドのスタジオシステム(映画会社との専属契約)ほど煩わしいものはなかった。まだ遊び盛りだというのに、早朝から深夜までの撮影所への拘束。しかも、合間の休憩時間には学校の宿題を済ませなければならなかった。こうした不満の反動として、ラナは夜遊びを始める。ゴシップを恐れたスタジオは再三に渡って素行の乱れを叱責するが、もう誰もこのじゃじゃ馬を止められない。夜な夜なナイトクラブに繰り出し、おデートの相手を探すのだった。

 ラナの最初の恋の相手はグレッグ・バウツァーという青年弁護士。彼女はこの女たらしに夢中になった。小さなダイヤの指輪を贈られると婚約指輪だと勘違いした。バウツァーがジョーン・クロフォードとも関係していることを知った後でも、本命は自分だと信じて疑わなかった。遊ばれたことを悟ったのは1940年2月12日のこと。怒ったラナは衝動的に、かつて映画で共演したバンドリーダー、アーティ・ショーをデートに誘う。そして、そのままラスベガスに旅立ち、なんと結婚してしまうのである。
「ラスベガスで結婚した。委細、電話。ラナ」
 その晩、このような電報が母ミルドレッドに届いたが、相手の名前は記載されていなかった。おそらく誰でもよかったのだろう。バウツァーへの当てつけに結婚さえしてしまえば、ラナにはそれで十分だったのである。
 こんな馬鹿げた気まぐれ結婚は、杉田某のそれよりも圧倒的に短かった。1ケ月も過ぎた頃に、ラナはかつての恋人に離婚手続を依頼した。彼女は妊娠していたが、私生児を産むのはスタジオでは御法度である。ラナは已むなく堕胎を選んだ。

 こうした私生活での不幸にも拘わらず、ラナの女優としての株はどんどん上がっていった。共演相手にはクラーク・ゲーブルやスペンサー・トレイシー、ロバート・テイラーといった錚々たる顔ぶれが並んだ。もちろん、彼らとはそのたびごとに浮き名を流した。噂ではあのハワード・ヒューズとも関係したと云われている。恋多き女、ラナ・ターナー。しかし、彼女の恋人選びは間違いなく、間違った方向へと向かっていた。



シュリルを抱くラナとジョセフ・クレイン

 1942年7月、まだ21歳のラナはまたしても、出会ってまだ3週間の男と結婚した。相手はジョセフ・スティーヴン・クレインという、二枚目だが定職のない遊び人。あのバグジー・シーゲル(「ラスベガスを作った男」として知られる有名なギャング)の下で働き、その愛人ヴァージニア・ヒルから金を借りて、鼻と顎を整形してハリウッドスターを夢見ていた、正真正銘のボンクラである。
 そんな男となんでまた?
 理由はただ一つ。クレインが父親に似ていたからである。富と名声を手にした今、ラナが求めていたのは9歳の時に亡くした父親だった。どうしようもなく馬鹿な父親だったが、それでもラナは大好きだった。
 そしてクレインも、どうしようもなく馬鹿だった。ラナはそのことに結婚5日目に気づいた。クレインには妻がいて、ラナとの結婚は重婚に該るというのである。
「なに考えてるの、あんた!」
 怒り狂ったラナは、その日のうちにも婚姻の無効を申請したが、クレインも早々に先妻と離婚し、もう大丈夫ですとラナに再婚を求めた。拒絶されると、ラナの邸宅の門柱に車をぶつけて自殺を図った。その数日後、睡眠薬の飲み過ぎで病院に担ぎ込まれている。
 この止めどもなく馬鹿な男をラナが再び夫として迎えたのは、一連の自殺騒動に同情してのことではない。彼女はまたしても妊娠していたのである。もう二度とベイビーは失いたくない。かくして運命の子、シェリル・クレインは悪夢のような情痴の果てに生を受けた。この子が15年後に己れの愛人を殺すことになろうとは、母ラナには知るよしもなかった。



ラナ・ターナーとシェリル・クレイン

 シェリル・クレインは1943年7月25日、ラナ・ターナーの長女として生まれた。彼女が物心つく頃には、父は何処にいるのか知れなかった(両親は早々に離婚していた)。母もほとんど家にいなかった。居てもシェリルと顔を合わせることはほとんどなかった。
「母は私にとって、手の届かない、近づきがたい存在でした。幼い私は、いつか母のようになりたい。いえ、母を自分のものにしたといつも願っていたのです」
 しかし、母ラナがシェリルのものになることは遂になかった。母はシェリルが「おじさん」と呼んでいた一群の男たちの所有物だった。「おじさん」の中にはあのタイロン・パワーもいた(ラナは1947年にパワーの子を堕胎している)。そして1948年8月、大富豪のボブ・トッピングが「新しいお父さん」になると、シェリルの孤独はいっそう深まった。というのも、祖母ミルドレッドとシェリルの親密な仲(ミルドレッドはシェリルの母代わりだった)に嫉妬したラナが、ミルドレッドを新居から追い出してしまったのである。

 シェリルはトッピングのことを、どうしても「お父さん」と呼ぶことが出来なかった。彼もまた「お父さん」と呼ばれることを好まなかった。ラナとはセックスだけで結ばれている関係だった。そのような関係であればやがて飽きがくる。彼は他に女を作り始めた。
 大スターたるラナにとって、これは堪え難いことだった。夫が自分以外の女と寝ることなど、到底受け入れることは出来なかった。1951年、彼女は自殺を図る。睡眠薬を大量に飲み、剃刀で手首を切ったのである。救急車を呼んだのはシェリルだった。シャリルは母ラナの脆さをこの時に知る。

 シェリルの次なる「お父さん」は、新進のターザン俳優レックス・バーカーだった。
「レックス・バーカーは、人好きのする外見の下に残忍な利己心を隠した男でした」
 シェリルは自伝の中で、バーカーに10歳の時から定期的に犯されていたという衝撃の事実を告白している。しかし、シェリルは母の幸せを願って、この地獄の責め苦を隠し通した。ラナの知るところになったのは3年後のことだ。バーカーが直ちに追い出されたのは云うまでもない。
 その1年後、シェリルは母の次なる愛人を殺害することになる。しかし、その悲惨な生い立ちを知る者には、彼女を責めることは出来なかった。



ジョニー・ストンパナートとラナ・ターナー

 ただでさえラナはブルーだった。18年も続いたMGMとの専属契約が、長年ヒット作がないことを理由に打ち切られてしまったのだ。かつてあんなにも憎んだスタジオシステムが、今となっては懐かしかった。そんな折、娘が夫に犯されていた事実を母ミルドレッドから知らされた。まともでなどいられる筈がなかった。今すぐ男が必要だった。亡き父のような、ハンサムで逞しい男に慰めてもらいたかった。
 そんな心の虚を突いて、この物語3人目の主人公が登場する。ジョニー・ストンパナートである。楽屋への花束攻撃が奏功してラナをデートに誘い出すことに成功したこの男は、正真正銘のヤクザだった(当時ロサンゼルスを仕切っていたミッキー・コーエンの下で、用心棒として働いていた)。しかし、自暴自棄のラナは、そうと知りつつ夢中になった。

「禁断の果実というのでしょうか、それは抗しがたい誘惑でした。この危険な忘我の境地は、セックスよりも遥かに刺激的でした」

 もちろん、セックスも十分に刺激的だった。撮影のために単身英国に渡ったラナは、ジョニーにこんな情熱的な手紙を書き綴っている。

「あまりに激しすぎて痛いくらい…。怖いけど最高よ。私はあなたのもの。あなたが欲しい!」

 欲しいと云われて与えてやるのがヒモの仕事。早々にロンドンに赴いたジョニーは、撮影所に顔を出し、ラナと戯れつく若造を目撃する。
 おいッ、ワシに代わって何しとんねんッ。
 拳銃をちらつかせて男に近づく。ところが、敵も然るもの。ジョニーが因縁をつけるや否や、鼻づらに一発喰らってノックアウト。そして、スコットランド・ヤードに通報されて国外追放の憂き目に遭う。相手が悪かった。ジョニーをKOにしたこの男は、なんと無名時代のショーン・コネリー。B級ヤクザがジェイムス・ボンドにかなう筈がない。

「やっと穴が埋められる」と思った矢先にジョニーが強制送還されて、ラナの「グッドバー=すてきなちんぽこ」への思慕は募るばかり。そして、撮影が終わるや否や、愛しの「ちんぽこヤクザ」とアカプルコに旅立つ。タブロイド紙によれば、二人の久しぶりの情事は「隣室の宿泊客から苦情が出るほどの騒々しさ」だったという。

 そんなラナにも、ジョニーに別れを告げなければならない時が訪れた。『青春物語』(1957)での娘の非行に悩む母親の演技がアカデミー主演賞にノミネートされたのである。演技を評価されたのは初めてのことだった。セックスシンボルとしての彩色を失い、MGMとの専属契約を打ち切られた今、彼女は演技派として第二のスタートを切らなければならなかった。そのためには、ヤクザの愛人は存在してはならなかった。

 1958年3月24日、第30回アカデミー賞授賞式。シェリルにとって、その日は特別なものとなった。初めて大人のドレスを身につけて、憧れの母をエスコートすることになったのである。それはシェリルにとって、社交界にデビューするようなものだった。結局、主演賞はジョアン・ウッドワード(『イブの三つの顔』)の手に渡ったが、それでもラナは満足だった。

「娘をこの場に立たせてあげたい」
「私も母のようになりたい」

 シェリルは帰りのリムジンの中で自分の夢を打ち明けた。ラナも協力することを約束した。この時、二人の心は初めて一つになった。ところが、帰宅した二人は一気に現実へと引き戻された。おいてけ堀を喰ったジョニーが家中をメチャメチャにしていたのである。



ジョニー・ストンパナートの遺体

 1958年4月4日、遂に運命の日は訪れた。

「あれは夜の9時頃だったでしょうか。ドアを乱暴に閉める音と共にジョニーが戻って来ました。シェリルは心配そうに私の顔を見ました。私は『ジョニーはすぐ帰るから』と云い、自室に引き下がっているように命じました」


 しかし、シェリルは引き下がらなかった。母に別れを告げられた狂犬が、ただで引き下がるとは思えなかったからだ。シェリルは母を守らなければならなかった。今、母は彼女のものになったのだから。

「あの男は母への怒りと憎しみで気が狂わんばかりでした。この男なら母を殺しかねない。私はその時、そう思いました」

 ジョニーは懐に手を入れて、何かを取り出そうとしていた。

「その綺麗な顔をめった切りにしてやるぜ、ベイビー。二度と仕事が出来なくなるようにしてやる」

 ああ、私の母が殺される!
 シェリルが夢中でキッチンに駆け込むと、そこには刃渡り23cmの肉切り包丁があった…。



法廷で熱弁するラナ・ターナー

 間もなく執り行われたシェリル・クレインの裁判は全米にテレビ中継され、高視聴率を獲得した。これに先行するタブロイドの悪趣味な記事が大衆の興味を煽ったからだ。

「色情狂の母、非行娘の報復に遭う」

 中にはラナからジョニーに宛てた猥褻文書ぎりぎりの手紙を掲載するものまであった。これらを受けて大衆は、かつてのアーバックルやチャップリンの時と同様の過剰な反応を示した。
 ところが、ラナは潰れなかった。今や合衆国市民最大の関心事となった法廷で、実に62分にも及ぶモノローグ(=証言)を披露し、視聴者の涙腺を大いに刺激したのである。意地の悪い者は「一世一代の名演技」と揶揄したが、陪審員の心を動かすには十分だった。全員一致で正当防衛を評決。法廷は歓呼と喝采で沸き上がった。

 この「一世一代の名演技」が奏功して、ラナには続々と出演依頼が舞い込んだ。ラナ・ターナーといういささか古惚けた女優に新たな商品価値が見い出されたのである。シェリルも晴れて無罪放免。めでたしめでたし。

 というわけにはいかない。

 シェリル・クレインのその後の人生は悲惨そのものだった。ガス室送りは免れたものの、感化院、精神病院、自殺未遂の日々を送った。女優への道が断たれたことは云うに及ばず、レックス・バーカーに犯されたトラウマが原因で男を愛せなくなっていた。
 一方、その母親はというと、60年から70年にかけて、更に3度の結婚と離婚を繰り返している…。
 誠に嫌な事件である。『ロサンゼルス・タイムス』紙に掲載された以下の言葉が、この事件の本質を的確に云い表している。

「シェリルを非行娘と決めつけるのは不当である。非行娘はむしろ、ラナの方だ」


参考文献

『ハリウッド・バビロン』ケネス・アンガー著(リブロポート)
『有名人殺人事件』タイムライフ編(同朋社出版)
『世界醜聞劇場』コリン・ウィルソン著(青土社)
『運命の殺人者たち』J・R・ナッシュ著(中央アート出版社)


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